哲学を小説に加えて書いてみようとしてるけど、やっぱ難しいよな。

哲学を小説に加えて書いてみようとしてるけど、やっぱ難しいよな。
昨日の晩、妹が救急搬送されるという出来事があって、付き添いで病院に行っていた。気がつけば午前3時。そこから10時までぶっ通しで眠って、ようやく今日が始まった。昼からサウナに行って、身体を整えて、飯を食って、今ようやくこうして机に向かっている。
最近、うちの家庭もなんだかんだと問題が増えてきているように感じる。そして僕自身も、4月や3月に比べると5月から明らかに調子を崩している。体調を戻そうとサウナに通ったり、休日を活用してリズムを整えたりしているけれど、なかなか戻ってこない。
この体調の波というのは、どうやら持病に起因する「ストレス脆弱性」というやつのようで、良くなったり悪くなったりするのが“平常運転”らしい。つまり、波があるのは前提として、気分に振り回されずにやるべきことをやっていくしかない、というわけだ。
そんなわけで、今日も小説を書いたりして日々を過ごしている。サウナの休憩室では、マーラーの交響曲第9番を流しながら、図書館で借りてきたフーコーの『知の考古学』を読んでいた。最近、小説の中でポストモダン哲学を扱おうと思っていて、哲学書を手に取ることが増えている。
とはいえ、普通に読んでもさっぱりわからないので、問いを立てながら読んだり、わからないところはチャッピーくんに聞いたりしている。語りと主体の問題など、自分の関心に近い領域ではあるのだが、やはり難解だ。構造主義やポストモダンのテキストは、言葉のレベルで難しすぎて、ちょっと読んだくらいでは全体像がつかめない。
まずはWikipediaで概要をつかんでから、要点を拾って読むという読み方をしている。小説を書くために神道や仏教を学んだこともあるけれど、今回のテーマはかなりぶっ飛んでいて、不条理劇のディスクールまで踏み込んでいる。こういうジャンルにハマる人には刺さると思うけれど、普通の人が読んだら「なんのこっちゃ?」となるだろう。
実際、読者の方からも「説明が足りない」と指摘されることがある。自分の視点で突っ走ってしまって、舞台の動きや前提が読み手に伝わっていないのだ。せっかく小説を書くなら、読者に伝える工夫や、読みやすさにも気を配らなければいけない。
Discordやニュースレターで小説を読んでもらい、感想をいただくようにしているけれど、どこで引っかかって、どこで脱落するかはやっぱり人に読んでもらわないとわからない。ChatGPTに感想を聞くこともあるけれど、彼らは「絶賛」する傾向があるので、意図的に「プロの編集者として批評的に答えて」と指示を出さないと使い物にならない。下手すると調子に乗って迷走するだけになる。
僕の趣味はやや偏っていて、わざわざ哲学や宗教などの難解な学問を小説に入れたがるところがある。でも最近は、もっと物語として「面白い」ものを書けないかと思ったりもしている。特に短編であれば、難しい要素をうまく咀嚼して表現する練習にもなるし、量産も可能だ。長編だと年に1本書ければいいほうで、感想を得るチャンスが少なすぎる。
そんなわけで、これからは短編小説を増やしていこうと思う。賞にも出して、批評ももらいながら、少しずつでも“伝わる作品”を書いていけたらいいなと思う。
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