ここ2年ぐらいはマジでSNS見てない。
サウナで落ち着いた気分でスマホを見ると気分を害した。最近のネットはSNSがなくても酷いもんである。
最近の巨人の阿部監督のAI騒動について色々と考えている。これ、結局リテラシー教育に繋げるしかないと思う。
サウナで落ち着いた気分でスマホを見ると気分を害した。最近のネットはSNSがなくても酷いもんである。
意訳すると、「世の中に随分うんざりしたので煽った文章を書くのをやめた」。うんざりしたのよね。
最近は無料で何もかも出すのがどうだろうという時代ではあるな。AIでパクられるばっかしであんまり書く意味がなかったりする。
今年は小説とかをどんどんクローズドなネットで出していくように方向性を変えようかなーと思う。ちょっと、オープンSNSに出すのはリスキー。
最近のネットは毒が強すぎてやられた。つくづくSNSの使い方というのを考えさせられる。
人嫌いが止まらない。本当まぁ、ここまで世間から孤立するような考え方でよく生きてられるなと思う。
最近はkindle Unlimitedを契約して、SNSの代わりに自費出版本を読みまくってる。ネットに依存するよりはましである。
ハッピーひとりの人間なので、最近の世の中のやたらベタベタと他人と距離が近すぎる社会には違和感を覚えるのである。幸福な孤独というのもあるもんだ。
どうも基本的にブログでもニュースレターでも一方的に書きっぱなしであり、相手からの意見を求めないところがある。そういうのあんまり情報発信の意味がない。
kindle本をひとまず出版手続きしたけど、ストアに公開されるまでには時間がかかるらしい。ひとまず、これで僕もweb上に商材を持つことができた。
ブログの情報発信に求められることが変わってるのではないかなと思う。バズとか人を集めて広告で稼ぐスタイルのやり方は古いかも。
基本的に僕はブログでは「政治・宗教・野球・ジェンダー」については書かないようにしています。どれだけ気をつけても炎上リスクが伴うからです。
どうにもゲスなネットの情報を漁るのがやめられない。フィルターバブルに対抗するには「無知の知」が重要。
SNSについてはそのヤバさばかりを再認識してしまう。現代社会において、SNSが社会の中心と認識されてるのは明らかにやばい。
僕は以前からそうだなと思っていたけど、最近は災害時はXを見ないように注意する人も増えた。災害時にどんな情報源を使うかは各人用意されたし。
ネットの現状にはわりかしムカムカきてるのだけど、自分にはどうにもできないことに怒るのは精神衛生上良くないなと気がついた。
僕はSNSの時代が終わって、個人コミュニティがクラスタでつながる時代が来ると思ってるんだよね。ひとまずブログやニュースレターにリソースを使おうと思う。
最近はSNSよりもRSSリーダーを眺めてる時間が長い。ブログをうまく利用してネットの居場所を確保したいね。
ブログオワコンの中でひたすらゴリゴリと個人ブログを続けている。でも、世間の潮流を見てるといずれブログの復権はあるんじゃないかなと思う。
最近のGoogle検索も使い物にならなくなってるし、ネットコミュニティも手頃なところがなくなってる。頭を硬くするのではなく、柔軟に対処したい。
ニュースレターやブログを書いていると、人間の言葉を使った営みについて考えることがある。こうやってものを書くことは、全世界や未来と通じることであるね。
なぜかブログからコーヒーの話まで幅広く書いてしまった。ネットも倫理観とかルールとかちゃんと決めとく必要あるよね。
ネットをフラフラしてるとビル・ゲイツ氏がネットへの失望を語ってる記事を見つけた。まぁ分からなくもない。
ネットをフラフラしてるとネットニュースの質の低下が激しい。世の中の若者は新聞の情報収集に回帰してんだってさ。
どうも調子が悪いのか自分が逃げてることばかりを考えている。ひとまず考え続けることか。
ネット空間を漂っていても最近はきな臭い場所が増えたなという感じ。安全圏から眺めてます。
台風でわりかしメンタル消耗してしまってるよね。それはともかく、今日はニュースレターを発行したのだけど、これも何かに活かしたいところ。
Twitterが危機的状況ということで、ネットの居場所について考えました。自分の大事な居場所は自分で管理しないとならないですね。
ブログ以外にも自分のためのネットコミュニティを増やしていきたいと思った。ひとまずメルマガでも作ってみようと思う。
ここ最近利用してるSNSはマストドンやBlueskyだけど、結局、一番使いやすいのははてなブログだったりする。
創作関係の趣味をやってると承認欲求やSNSとの付き合い方が重要になってくる。最近は承認欲求と競争しなくても楽しめるSNSが増えている。
Blueskyを招待していただいたので参加してみた。Twitterの後の世界について考えます。
普段のネットの居場所を考えてます。Twitterには戻る気しないですね。
ネットのでの名前の使い分けというのにいろんな考え方があると思うけど、僕自身はそこまでこだわりはないです。
今のネットを眺めるといろんなものがつながりすぎだなと思う。そんな中で僕は僕なりの距離感でネットと付き合おうと思いました。
最近のtwitterなどのSNSについては何も期待できなくなってます。ネット空間の居場所は探し続けたいです。
最近はマストドンの方にいる時間が長いのだけど、ポートフォリオサイトの必要性を感じた。
現代においてインターネットというのは凄まじい発明だと思うんだけど、人類はそれを使いこなせていません。
ちょっとネットを巡っていると氷河期世代の今後が気になったので、世の中を論じてみた。
世界がどんどん発展していってどんな未来になるかに興味がある。インターネットはおそらくすごいことになっちゃうであろう。
近年では国家ぐるみの情報戦というのが行われておりネットにはフェイクニュースが溢れています。正確な情報を知る重要性が高まってます。
web広告についてはひどいものもたくさんあるので、サイト運営主がチェックした方が良いですね。
最近の画像生成AIの進歩というのはめざましく、お絵描き文化がどうなってくのかというのを心配した文章。
ネットをフラフラしていて面白いと感じることが少なくなりました。才能の偏在を感じます。
インターネットを通じて見えてくる世界というのは変わった。自分が変わったのか、世界が変わったのか。
ネットを彷徨ってると「もりのこどく」という人がVRコミュニティをクラウドファンディングしてるらしき話を耳にしました。
最近のネットの潮流などを見てると、ネットで流れている情報がまったく信用ならない事がわかります。自分なりの情報収集の方法を試行錯誤する必要があるでしょう。
コロナ禍の状況下では、正確な情報を見抜く情報リテラシーの価値は高くなります。
嫁さんはひとまず元気です。今日はアドセンス周りのブログカスタマイズをしてたので、最近の広告関係の流れを書いてみました。
時間の無駄なのでtwitterを辞めることにしました。その分を本を読んだりして情報収集したいです。
オリンピックが始まって、twitterのTLが騒がしいことになってます。僕が見えてる世界に問題があるのかもしれないですけど、ネット社会を考察します。
今週のネットの話題を2つほどお話しました。今週ははてなブックマークに建設的順位付けアルゴリズムが導入された話と、藤本タツキ氏の作品に関する話です。
7月第2週のブックマークをまとめました。今週は株式会社はてな創業20周年とかTwitterのフリート廃止などの出来事がありました。
「News Diet」を読んでいるのですが、人間の思考パターンというのが如何にネットに支配されているのかに気がつきました。おそらく、我々は短文でしか思考できなくなってます。
近年、はてなの勢力が衰えてきているしブログも衰退している。何かしら別の情報発信の切り口考えないといけないかなーと思った。
観測範囲内で「何者かになる」という話題が散見されたので、自分なりに考えをまとめてみた。自分がやりたいことより、世の中の潮流に動かされている人が多いのでしょう。
Google検索が使えないと言われて久しいので、うまく情報を検索するコツを書いてみました。3種類ほど書いてありますけど、使いやすいものを使ってください。
自分にも承認欲求はあると思うのだけど、自分ではっきりと認識することが出来てない。はたしてこの先もネットで情報発信を行なっていく中で、これが大きな障害にならなければ良いのだけど。
最近、twitterなどのネットを見ていて思うことを書きました。コロナ禍の状況下では誰しもイライラして、まともなコミュニケーションが取れていないので、リアルでの関係を大事にした方が良いと思いました。
最近、絵を色々と描いているけど、ネットでのセルフブランディングを考えるのも面白いなと感じました。色々と人脈を増やしてみて、面白い生き方をできれば良いと思いました。
ネットでの金稼ぎの現状を俯瞰して、僕の書くべきことはこんな感じである。ネット小作人の概念についてはもうちょっと深めたいところ。
現代のネット社会において、個人の意思が自由になるスペースはほとんどない事。twitterにせよGoogleにせよ、個人の意思を上手く利用することで利益に結びつけている。
ネットから有益な情報を集めるためには良いコミュニティに参加するのが一番良い方法です。現在では良いコミュニティというのは少なくなってしまっており、自分も探している状況です。
Googleなどで「ブロガー」を検索しても分かるように、この呼称はブログを使って金を稼ぐ人を指すらしい。情報発信が好きでブログを書いている人たちを指す、別の呼称が必要なのではないか?という主張。